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ふたたび上杉鷹山(ようざん)

 

【上杉鷹山廟/山形県米沢市】

 

 深刻な人口問題。キリストが誕生した西暦一年では世界人口2億人と言われ2058年頃には100億人と予想される中、日本ではあと25年もすると9千万人を割るなどと言われて1995年の8928万人規模となり、その後も右肩下がりになり生産人口が極端に減少し、産業経済も低迷に向かい食糧やエネルギー不足など心配は尽きず、国力減退、格差拡大、国防にも大きな影響を及ぼす。

 

 江戸末期、莫大な借金を抱え財政は再起不能状態の上杉家米沢藩。歴代上杉家の跡取りでなく養子として十代目上杉鷹山公の藩政改革のお話。

 上杉謙信(1530~1578)は領土越後を拠点に加賀・能登へと勢力を延ばした戦国武将。謙信の養子2代目景勝は豊臣秀吉に仕え会津百二十万石。関ヶ原の戦いの結果米沢三十万石に移封され、財政は八分の一となっているも、家臣数や習わしなどは百二十万石の当時と変わらず、格は高いが借入金11万両と膨大で再貧困に至り、人口は減少し農村は荒廃していた。藩籍返上~倒産状態であった。

 上杉鷹山(治憲/1751~1822)は九州高鍋藩秋月家から養子縁組で上杉家十代目藩主となった。

 アメリカ第35代大統領ジョン・F・ケネディに日本人記者から「日本で尊敬する指導者はいるのか?」の質問に『上杉鷹山』と応え記者達は〔?〕困惑したというエピソード。多分、内村鑑三著「代表的日本人/英訳」で知ったのだろう。三戸部稲造著「武士道/英訳」にも鷹山公は紹介されている。

 鷹山公の藩政改革は倹約行政刷新産業振興耕地開墾に努めた優れた指導者であり、戦前の学校教科書「終身(道徳)」にも登場していた。

 鷹山公は反発する家老重役達を除き、足軽をも集めて大会議。犯人探しではなくどうしたら藩籍返上を防げるかをテーマに家臣に討議をさせ、借金返済を柱に二十年長期計画を示し、「節約倹約は利益である」と意識改革の扉を開いた。

 倹約令を出し自ら千五百両から二百九両と七分の一の生活費、一汁一菜、木綿着用、江戸奥女中50人から41人のリストラ~再就職は他の屋敷で雇って貰う。参勤交代経費大削減。不正を生みやすい世襲制を禁じ、役人の不正も取り締まり、冠婚葬祭や祝宴贈答を中止し、葬式は分相応~今で言う「小さなお葬式」に~法事も同様に心掛け推し。

 家臣たちは登城させず農事に勤め、荒廃した農村、人が住み着くように武家の次男、三男には田畑と家屋を与え、産業の中心は農業であり農民とした。

 農業指導に優秀な指導者を招き郷村教導を求め大規模な植林・育林・桑から織物を作り、米沢織は当時重宝されていった。又、コウゾ(楮)からは50種類以上の和紙が作られ、商品開発などと産業振興に大資金を費やしていた。未来投資である。

 

 1777年には老人に対して敬老会を開き、お金や米、料理を振る舞い、その後は記念品配布と繋げ、1792年九十歳を越えた老人には老齢年金を与え、生まれた子供を優遇し、子供5人以上の家庭には支援金を用意した。帰村・入村者を歓迎し福祉にも熱い愛情を注いでいた。

 鷹山公の政治には『無比の誠実さと慈愛』があり、七十二歳で生涯を閉じたのち借金返済は完済されて、鷹山公の藩政は大成功。

 鷹山公が良く口にした言葉を和歌で詠んだ『為せば成る 為さねば成らぬ何事も 為らぬは人の 為さぬなりけり』は有名で素敵な和歌(五七五七七/三十一文字の短歌)であり元気が沸く。故人ケネディ大統領も草葉の陰で思っているかも・・・日本の政治家よ心してもっと良く学び、特に弱者のために行動せよ!と。

 小藩米沢の藩政改革に立ち向かった鷹山公、比べて見ると現代の政治家達~小さく見えてしまう。

鷹山公の教え

①情報は全て共有する ②職場での討議は活発にする ③その合意を尊重する

④現場を重視する ⑤職場内に愛と信頼を

 

 29歳で市内の大型店を経営する一立場になった。競合や環境、経営態勢などで苦心していた時に鷹山公の教えを手本に苦難を防ぐも届かず17年で幕。

 6年前東北六県を7日間周遊し、山形米沢に降り立ち上杉家御廟に立ち寄る。謙信を中央に十二廟並ぶ中、端の一つの廟には二つの花があった。鷹山公へ当時勇気を戴いたお礼参りの旅。【田所】