· 

日本遺産 炭鉄港・グルメめし旅

 冷房はなく我慢大会のような暑さの中、テーブルの上に団扇ひとつ、それを扇ぎ汗を拭いカツカレーを注文。カレーは美味しく並盛なのに大盛の量。

 夕張に名物豚バラ肉の『カレーそば』があり、ヤマの男たちの定番メニューだったカレーの美味しさは健在している。

【☟ゆうばり屋台村/カレーそば旭】

                               【☝赤平市/寿司屋松川のガンガン鍋】

 鈍行列車の鉄路旅。函館本線滝川駅から路線バスに乗り換え赤平市(ピーク6万人/現9300人)に入る。

 電話で先に場所を確認して向かうと「寿司屋まつかわ」の女将さんが店先でお迎え。名物『ガンガン鍋/1000円』は豚ホルモンとレバーに豆腐や玉葱の味噌煮込み土鍋。炭住などでストーブに石炭をガンガン焚いてガンガン食べる。

 女将さんの「鍋」自慢話が続き、間引きした小メロンの一夜漬物や近所の山からの恵み「蕗」の煮物も自慢。赤平出身の鈴木貴之自慢や有名人も多数来店の様子。

 美唄(現22,000人)はアイヌ語でピパオイ(カラス貝の多い川)。駅近くにある「たつみ」で『美唄やきとり/1本150円』はハツ、砂肝、鶏レバー、キンカンなどのモツと鶏皮、モモ肉など塩コショーで食す。『もつ串』とも呼ばれていた。

【☟美唄たつみ・とりめしも名物】

                             【☝パチンコ店前に移転・老舗桂苑】

 美唄から函館本線乗り継ぎで小樽市(ピーク207,093人/現105,711人)へ、小樽市の人口は江別市に抜かれ減少傾向が続く。旧幌内炭鉱(現三笠市)などで採炭された石炭を小樽港から本州へ運ぶ港湾都市。『あんかけ焼きそば(旧名/炒麺)』は小樽港湾で働く船員や沖仲仕たちが愛した小樽ソウルフード。中心街に20席の中華食堂「佳苑」中太麵に海老や木耳に7種の野菜、熱々固めのあんかけでボリューム満点920円。店内狭く相席したご夫婦は熊本で定年になり、千歳に移住し偶然にも食談義。

 相席でいつもの「孤独のグルメ」パターン~抜けた。

芦別の『ガタタン』、夕張の『炭鉄港ダムカレー』、札幌駅どさんこプラザ内には美唄の『石炭やきそば』が置いてある。スイーツも小樽の『ぱんじゅう』、栗山の『日本一のきびだんご』も健在で、砂川のスイートロードも炭鉄港グルメのお仲間なのです。

 室蘭本線で室蘭市(ピーク18万人/現8万人)「味の大王」で『カレーラーメン930円』食す。『室蘭やきとり』は夕方営業が殆ど。

 屋台でモツや雀、野鳥全てをやきとりと言い、後に豚肉と玉葱の串焼きとなり、とんカツやおでんからの発想で甘辛タレに洋からしを付ける室蘭流のB級グルメで濃厚カレーラーメンもGood。

 食糧増産と軍靴用皮生産のため全国で「養豚」が奨励された時代、製鉄所や工場、港湾等で働く労働者諸君に豚と玉葱の串焼きが室蘭やきとり。

【☝カレーラーメン発祥/味の大王】

 炭鉱全盛期の時代から、肉体労働炭鉱マンが栄養価が高く安価な食べ物として好まれていたもので、北海道の産業と独特な食文化の歴史。空知の炭鉱~鉄道と室蘭の鉄鋼~小樽の港湾を『炭・鉄・港/たん・てつ・こう』と2010年代から注目を浴び、北の産業革命~2019年日本遺産として文化庁が認定し、スタミナ満点で濃い味が特徴的で労働者を支えた『炭鉄港めし』が注目されている。

 石炭が一大国家プロジェクトとなったのは1853年ペリー提督が黒船で来航し、以降米英仏露蘭との交易が盛んになり、捕鯨船や外国船舶の燃料供給が始まり鉄道輸送や港整備も急速に必要になっていった。

 1879年三笠に官営幌内炭鉱が開鉱(1989年閉山)石炭の大量輸送の為に鉄道と鉄鋼業に流通港、開拓や産業近代化を急速に推し進める歴史的要求によって急速な地域発展があり北海道に人々が集まった。

 炭鉱全盛期当時狭い山や谷に囲まれた夕張の人口は13万人を超え、1964年東京五輪のあった頃の小樽は20万人の大都市となり、現在の人口減からも産業遺産の盛衰を学ばなければならない。その為に各地の『炭鉄港』めしを食し、その歴史を知っておくべきと感慨深く思う旅となった。…少し太ったかも…。

 『炭鉄港』めし四食巡りの旅程鉄道距離538㎞。旅費(フリーパス/バス代含む)5,980円(通常運賃/12,447円で半分)。

 食事代3,180円。4店の共通点は「注文タブレット」なし、「配膳ロボット」なし、「セルフレジ」なしと100%人的で「いらっしゃいませ」など快く聴こえた。  【田所】