戦力不保持等、米国等から押し付けられた新憲法の下、各地の4師団75千人が戦地に移動、GHQから警察予備隊発足を命じられ現自衛隊へ展開。
朝鮮戦争では米軍4万人を超える死者や行方不明者を出し、駐留し戦地に向かった兵士には千歳が最後の歓楽地となった者も多かっただろう。
当時国家公務員高卒の初任給3850円。米兵が繁華街で使う金額は月に1億円にものぼり、1円札が使われていた時代(銭湯:子供1円札7枚)、米兵に道を教えるだけでも千円のチップが貰えたりとかバナナ一房700円(1$360円)で売れたとのエピソードもあり、千歳の街全体が超特需景気。
人口2万人の千歳の街のビアホールは一気に58件に増え、毎週末消費されるビールはトラック4台分で2万本以上、床に落ちたビール瓶の王冠をシャベルで片付けるなど凄まじい時代。
女性の職業や生活手段が極めて限られている時代。生きるために体を張って千歳に出入りしていた特殊女性~パンパンやオンリー(愛人)は1000人。
道内札幌などから500人、地元含め500人のうち200人以上が九州出身者で、売春業者が管理し自分や親などの借金の形(カタ)で…まるで時代劇。
米兵相手の女性を住まわせる「ハウス」が423軒もあり、愛人女性を住まわせる貸屋六畳間の家賃が7千円と、公務員の月給を大きく上回った。
国会では売春防止法制に向けて進んでいる中、千歳は「売春公認・人権無視」の街であると汚名。千歳町も警察も取り締まれない中、千歳商工会議所の川向にある栄光教会は1951年12月25日に始まり翌年幼稚園も開設され自分も通園した。
この教会の総工費は340万円で300万円は米軍からの献金で建てられ、従軍牧師や工科部隊の隊員も建設に多く携わっていた。
戦場で死を覚悟する兵士、生き抜くために体を張る女性が逞しく暮らしていた70年前の千歳。
特需景気の千歳に我が家族は1952年春に移り住み、街中の集合商店マーケットで生まれ育ち、兵士に付き添う女性の姿などは日常的であった。
三島由紀夫著書『夏子の冒険』(1951年発表)では「千歳は今ではアメリカ空軍の町である。病院に行く道筋の橋げたに2~3人の派手な女がよりかかっている。北海道の田舎町が東京の避暑地になったかと疑われそう…」 【田所】
参考:北海道新聞/1951CHITOSEより
画像提供:Yahoo・北海道新聞社